”組織や会社やお金でなくて、ものというか道具というか、そういうものに熱心になれる人。それが、わたしにはわかりやすくて、なにか感じたの”
ジンときました。
池澤夏樹氏の1991年の著作「タマリンドの木」の中で、ヒロイン修子が恋人になったばかりの野山にささやいた言葉です。修子は僕の好みのタイプ、野山はどこか僕に似ている気がしていたので、あっさりと感情移入してしまいました。野山は船舶エンジンの技術者であり、修子にエンジンの構造を熱く語ったのでした。
子供の頃は、家でも学校でも「ものにこだわるな」と教えられてきたように思います。
食べものなら、出されたものを文句を言わず黙って食べること。着るものは、清潔でさえあれば良し、色や形や寸法を気にかけないこと。その他持ちものでも玩具でも、特別なものを欲しがらないこと。
どれも納得できる一面はありますが、納得しきれない部分があることを子供ながらに感じていました。食べものの好き嫌いがあるのは当然だし、着るものだって好みや流行りってものがあるでしょ。誰もが持っているものは自分も欲しいけれど、誰も持っていないものを欲しくなるときもあるんだって。
しかしそれでも自然に我慢できたのは、ものが少なく経済的にも豊かではない時代だったからだと思います。反して現在はどうでしょう。言うまでもないことですが、巷はもので溢れかえっており、多くの人に選択の自由があるように見えます。食べもの、着るもの、あらゆるものにこだわりをもって各人が選んでいるかのように見えますが、しかし実際は違います。
TVや雑誌で取り上げられた店で行列を作って食べ、業界が仕組んで流行らせた服を着て、ブランド品も時計も車も、品質よりはその価格にものの価値を見出す人が増えているようです。”組織や会社やお金”には敏感に反応しますが、”もの”自体を理解しようという熱意に欠けているように思えます。
年齢性別に関係なく、世の中の大部分が本当の意味での”ものにこだわる”姿勢を失っていく中で、頑固に頑張っている人たちもいます。僕の知っている範囲でその筆頭は、ギャラリー村岡の店主村岡武司氏です。函館の古い建物の壁をこすって歴史を探るという活動で全国的に有名になりました。元町のギャラリーには、村岡さんの選んだ品々が所狭しと並んで(積み重なって?)おり、同様の感性をお持ちの方には、宝の山と思えるはずです。
http://www6.ncv.ne.jp/~gmuraoka/
池澤夏樹氏のデビュー作「夏の朝の成層圏」(1984年)では、冒頭で主人公の青年が独白しています。
”記述や描写や表現は、過去の事物と、遠方と、死者を語るためのものだ。言葉の積木をいくら積んでも、この世界は作れない。・・・~百万の言葉を組合せても、一本の木も作れない”
読んだ当時何か共感できるものを感じたらしく、この一節をメモしてありました。目の前に実際に存在する”もの”と、それを表現し伝えようとする言葉(情報)との間にある埋められない溝を語ったものだと思います。
そんなわけで、ギャラリー村岡についても 、村岡さんに関しても、詳細な説明はしません。ステンドグラス「PEACE」展は5月15日まで、是非1度お訪ねください。