楽をしたいという気持ちは誰にでもあるでしょう。
それに金銭的欲求が加わると、”ここをこういうふうにしておくと楽に作れるぞ・・”という悪魔のささやきが聞こえてきます。
楽をすれば早くできて、”儲かる”からです。
そのかわりデザインが犠牲になります。
”ステンドグラスのデザインの良し悪しなんて、誰にわかる?”
”苦労して作っても誰も認めてくれないなら、やるだけ無駄だな・・・”
なんて声も聞こえてきそうですが、そんな気持ちで作ったものが人に感動を与えられるわけがありません。
和光荘のステンドグラスがすべて小川三知のものかどうかはわかりませんが、最初に玄関ホールで見たステンドグラスにも作者の心が宿っています。
省略しても構わないような小さなピース、あってもなくてもステンドグラスの効果にはほとんど違いがないでしょう。
ほんの僅かの出っ張り、これがなければ材料も節約できるし、とても楽に作れたはずです。
ステンドグラスの制作には様々な制約があります。
ひとつひとつのガラス片は、当然のことながらカットできる大きさと形でなければなりません。
ガラス片をつなぐ鉛桟は、その形や数や位置が作品全体の強度を決定します。
例えばこの鳥の形にしても、自由に描いてよいわけではなく、上記の点を考慮しながら描くのです。
しかし、鉛桟の位置を1㎜横にずらすと絵の形は良くなるが強度が落ちる、どうしようか?という場合が多々あります。
自分の頭の中で真剣なせめぎ合いが始まります。
難しい作品のときには、頭がヒートアップして汗が吹き出すほどです。
三知の鳥の形には1㎜を問題にして葛藤した跡が見えます。
おそらく、実際にステンドグラスを制作する人間でなければ感知できない苦労の跡です。
でも、そこに降り注いだ情熱を感ずることができる人は多いのではないでしょうか。
古いステンドグラスがすべて良いわけではありません。
楽をしようとした形跡が見て取れるものも結構多いのです。
公共建築に取り付けられて、広く知られている作品の中にもそういうものはあります。
立派な邸宅とはいえ、今以上に遠かった北海道の、見る人が限られている個人邸の、玄関やサンルームや浴室を美しく飾ることを夢見た、その熱き思いは朽ちることなく生き続けていました。