雑記帳

料理が上手

2008年3月31日
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昨日、僕の住む江別市で「食と芸術を味わう夕べ」という会がありまして、僕も会場に作品を並べさせてもらうと同時に、素晴らしい料理の数々を堪能さ せていただきました。会を主催したのは、江別市内に3年前に開店した「シェ・キノ」さんと、1年前に開店した「ダイニング木の家」さんです。キノさんはフ ランス料理、木の家さんはイタリア料理を主としてまして、シェフの苗字はどちらも木下さん、いとこ同士のお二人です。

会場で供された料理の数々は、一品一品がどれも手を抜かない職人の技を感じさせるものでありましたが、それ以上にすばらしいと感じたのは、全体の構 成(デザイン)でした。何日も前から準備して作ったもの、その日に作ったもの、会が進んだ中頃に作って出すもの、熱いもの冷たいもの常温のもの、肉や野菜 やパスタ、それらに合わせるワインの種類、2時間ぐらいの間に様々な要素が交差して複雑に絡み合うことになります。こうした要素の種類が多いほど、それら をまとめる構成力が重要になると思います。

さて、料理の専門家でもない僕が、 えらそうに解説まがいのことを書くのには、ちゃんとした理由があります。この「ちゃんとした理由」を 納得してもらうには、長い説明が必要ですが、できるだけかいつまんでお話します。

かいつまんでも、話は僕が小学2年生のときから始めなければなりません。
学校で図工の授業中、僕はクレヨンで絵を描いていました。桃色のクレヨンを使いながら「変な味がするねえ~」と言ったら、隣の席の男の子が「そおかあ ~?」と言いながらその色のクレヨンをかじりました。「なんにも味がしないぞ」と言うので、もっといやな味がするえび茶色の絵の具を差し出して「これはど う?」と言ったら、その子はそれもかじって「なんにも」と言いました。それを見ていたまわり中の子供達が次々とクレヨンをかじって、ちょっとした騒ぎにな り、先生にひどく叱られました。僕はこの時はじめて、他の子はクレヨンを見ても味が しないということを知りました。僕もクレヨンを舐めてみましたが、味はしませんでした。

そのあとすぐ僕は、ある種の食べ物を見ると、まだ口にしていないのに味がするという奇妙な病気にかかり、思うように食事ができなくなりました。例え ば、肉を見ると肉の味ではなく、なにか別のいやな味が口いっぱいに広がって、食べることができませんでした。当然のごとく僕は栄養失調に陥り、小学生の間 ずっと毎日のように病院で栄養剤を打ち続けることになりました。この病気が一番ひどかったのは高校一年生のときで、食べ物以外のものに対象が広がって、教 科書を読むと次々といやな味が口中に混ざりあったり、さらに先生の声を聞いても味がして、ついには嘔吐し、しばらく登校できないということを繰り返しまし た。

高三も終わり頃になって、症状は治まりましたが、その後もずっと、僕は好き嫌いが極端に多い人間として、両親からも単なる”食わず嫌い”と思われて いましたし、自分でもそう思っていました。 19歳の終わりにフランスへ渡ったときは、食に対する興味を全く失っているばかりか反感さえ持っていて、食べ物の味などどうでも良い、体を維持するための最低限の栄養が取れれば充分と公言し、味にこだわる人間を見ると不愉快に感じていました。

色彩の炸裂この状況が変わったのは、確かステンドグラスの勉強を始めるために工芸学校へ通い始めた23歳のころだと思うのですが、ある日パリのありふれた小さ なカフェで一人で昼食をとっていたときに、突然目の前に花火のような色彩が炸裂し、驚いて固まっている間にその色は徐々に消えていきました。何事だったの だろうと思いながら、再び食べ物を口に入れると同様の現象、驚きながらも繰り返しているうちに、食べる物によって目の前に広がる色が変わることに気がつき ました。と同時に、小学生のときのクレヨンを思い出し、色から味ではなく、味から色へと逆方向の流通が起きていることを理解しました。

激しい色が見えたのは、このときの一度きりですが 、それをきっかけにして徐々に食べることが楽しくなり、目も耳も舌も人間の感覚はすべてひとつにつながっていることを実感しました。ステンドグラスの色彩 に触れることが、多分僕の中の何かに作用し、変えたのではないかと思っています。

この件に関しては、その後いくつかの変転がありまして、日常生活に支障をきたすようになったため、フランスで脳の精密検査を受けました。帰国後にも いくつかの病院で、数年にわたり検査を 受けましたが、結果はいずれも異常なし。と言うより、異常はあるけど原因不明。40歳を過ぎたら変わるだろうと予言した医者がいて、その通りになりまし た。今では変わった現象もなく、全く正常です。(と思います)

パリのカフェでの体験以来、僕は突如として何でも食べられるようになりましたが、絵を見るときと同様、作った人間の気持を探るような食べ方をするよ うになってしまいました。実際、食事をしながら、形や色が重なり合ってひとつの絵に仕上がっていく気がするときがあります。その絵が良くできていると、こ のひとは絵が上手だとか、個性的だとか感心しますが、バランスがくずれていたり、ありきたりだったり、熱意が感じられなかったりする絵を見せられると、 がっかりしてしまいます。

話はやっと元に戻りますが、 シェ・キノさんに初めて食事に行った時のこと、ひとつひとつの料理もさることながら、その組み合わせの良さや、出すタイミングのうまさに感心し、よくできた絵 を見せられたような気がして嬉しくなりました。帰り際に、何か一言賛辞を述べたくて僕は、木下シェフをつかまえ「料理が上手ですね」と言ってしまいまし た。ど素人のしかも一見の客が、プロの料理人に向かって言う言葉ではありません。

料理は、デザインの一種だと思います。ラーメンでも寿司でもカレーライスでも同じことです。作り手のアイデアがあり、それを実現する技術が必要で す。 アイデアはあるけど技術が未熟、技術はあるけどアイデアが貧弱、どちらも良い作品は作れません。僕は、料理を語るほどの知識も技術もないけれど、デザイン についてなら少しくらい言わせてもらってもいいんじゃないかと思うのです。「料理が上手」とは、つまり僕なりの理解の仕方で、「デザインが上手」という意 味でした。幸い木下シェフは、気を悪くすることもなく「ありがとうございます」と言ってくれたので助かりました。

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