先日、久しぶりに映画館で映画を見ました。
ジブリの「思い出のマーニー」です。原作は、イギリスの児童文学作家ジョーン・G・ロビンソン(女性)が1967年に刊行した作品( 原題:When Marnie Was There)ですが、ジブリが舞台を北海道に置き換えてアニメ化しました。
冒頭、札幌に住む主人公杏奈(原作でもアンナ)が傷ついた心を抱えて道東の街へと旅たちます。
札幌駅のプラットホームの場面で、”釧路”の表示と共に”江別”の文字が読めました。
僕は生まれ育ちが札幌で現在は江別に住んでいますから、映画が突然身近なものに感じられました。
しかし、その後の道東の風景や家屋、人々の様子、言葉使いなど、僕が知っている”北海道”とはどこかが違っていて、奇妙な違和感を感じつつ映画を見ることとなりました。
ストーリーが進行するにつれ、杏奈の疎外感、孤独感が増幅され、いまにも破綻を迎えそうな不安に満ちるとき、ドラマはクライマックスを迎えます。
途中、”とうもろこし”という言葉が出てきて、益々北海道じゃないと思うようになりました(北海道では”とうきび”と言います)。金髪のマーニーが登場している場面では、舞台が原作のイギリスのような気さえして、北海道どころか日本でもない印象です。さらに後半では、夢か現実かも見分けがつかなくなり、最後は一気に現実に戻されて呆然としますが、それはイギリス風推理小説の謎解きのようでもありました。それこそが原作者ロビンソンのねらいでもあり、米林宏昌監督のねらいでもあったのだろうと思います。つまり舞台が北海道かどうかなんてことはどうでもよくて、時代考証や地域文化考証なんてものも、さほど重要ではないのでしょうね。このあたりの自由さはいつものジブリ作品です。但し対象年齢が原作と同様にかなり上の方、多分中学生以上だろうと思います。
この映画を、またはこの原作を、少女の 成長物語だとするとらえ方もありますが、内容にはもっと深いものがあります。運命の非情さを受け入れる心のあり方や、人を許すこと、愛すること、希望を持つこと、そのための第一歩をどうやって踏み出すのか、といったことが描かれていて、それはむしろある程度齢を重ねた人間にこそ共感できる内容だろうと思います。
映画の舞台は北海道でなくともよかったのかもしれませんが、気候風土や西洋との文化的結びつきなどを考えると、北海道以外にはなかったという気もします。
ちなみに、同じくイギリスの女流児童文学作家アン・フィリッパ・ピアスが1958年に発表した名作「トムは真夜中の庭で」のストーリーや雰囲気が「思い出のマーニー」と似ており、ロビンソンが何らかの影響を受けたのではないかと思われます。宮崎駿さんは、ある対談の中で、自分が影響を受けた作家のひとりとしてピアスの方を挙げています。