14日(水曜日)午後。この日は忙しい。午前中の相馬保育園訪問の後、夜は仙台で演奏会がある。つまり山形県から福島県、さらに宮城県へと移動するわけだ。
そう言いながらも、途中少し時間の余裕ができたので、宮城県角田市の陶芸家池田匡優さんのエミシ工房を訪ねることにした。池田さんには2年前の支援旅行の際に大変お世話になっている。参照→「できることをやろう2014ーその12-」
池田さんによると「最近になって放射線の観測数値は大きく低下し、それに伴って人々の関心も薄れている」「決して安全になったわけじゃないのは分かっているけれど、気持ちが少し楽になった」ということだ。そこに住み続ける人の自然な感想だと思う。
改装したギャラリーを見させていただき、2年前に買い求めた粉引きのカップと同じ種類のものをもうひとついただいた。
お猪口をおまけにつけてくれた。
「この次はまた一緒に飲みましょう」と約束して、慌しくエミシ工房を後にした。
そこから車で1時間ほど北に位置する仙台市宮城野区新浜へと向かう。宮城野区は仙台市を構成する5区の内のひとつで、北東の太平洋に面している。大震災の時は、高さ10m以上の津波が時速数十kmで押し寄せたと言われており、多くの犠牲者を出した地域だ。小野さんはこの地域の仮設住宅のひとつに過去三回訪れている。
現在その仮設住宅は撤去されているが、居住者の一部は今でも近辺に暮らしているそうだ。この夜はその方々が、被災地に新しく建てられた集会所に集まってくれることになった。
まだ明るいうちに”新浜町内会集会所”に到着。
津波はここまで到達しており、周囲には寂しげな風景が広がっている。
集会所の隣にそびえ立つ、ちょっと異様な感じがする建物は”津波避難タワー”だ。その高さが、この地を襲った津波の高さを物語る。
真新しい建物に入り、演奏の準備をする。
準備が終わり、軽く腹ごしらえをするために持参の食料を出そうとしたら、すかさず「これを食べてください」と、とんかつ弁当に漬物、お茶を手早く用意してくれた。そうこうしている間にも、会場にちらほらと人が入ってくる。来場の方々同士は普段から顔を合わせているらしく、久しぶりという感じではない。小野さんにとっては1年ぶりだが、ほとんど顔見知りの人たちだ。
十数人の人が集まって、小野さんが演奏を始める。
小野さんの演奏は、「わたしの家」とも「相馬保育園」とも違う。
より深く、響き渡る音質で、その音にふさわしい曲を奏でる。
プログラム後半で必ず出てくるドラムが、元気と共に連帯感を生む。
ドラム協演には全員参加、何度か経験している人たちばかりだから手馴れたものだ。
皆で遊んで盛り上がって、「また来るよ~」とお別れしながら集会所の外に出る。
一時はすべてを失ったように見えた土地だけれど、本当に”すべて”ではなかった。残された命が、たくましく新しいものを生み出しているのは確かで、少しでもそこに関われることが嬉しい。
その夜の僕たちの寝床は、集会所の床でも、どこかのお宅の居間の片隅でも十分と思っていたのだが、近隣のホテルの部屋を用意してくれていた。
散財させてすみません。色々とお心遣いありがとうございます。ただただ恐縮するばかりだった。
ー続く