今日は三女(小学3年生)の運動会の日でしたが、あいにくの雨で明日に延期となりました。
三女はとりたてて足が速いわけでもなく、運動能力に優れているわけでもなく、幼稚園のころを含めて思い返しても、運動会で活躍した姿を見た覚えがありません。しかし、何故か今年は妙に張り切っていて、大活躍の予定らしいのです。その自信の根拠が何処にあるのか不明のまま、家族一同明日を楽しみにしているところです。
思えば僕自身、運動会ではいつも脇役でしたが、逆に運動会だけは主役だった級友の嬉々とした顔をいくつか思い浮かべることができます。当時は町内の運動会も盛んで、そこでは賞品がたくさん付きましたから、足の速い子は 一抱えもあるノートや鉛筆を誇らしげに持ち帰りました。しかし、足の遅い子にも同じように賞品をあげようという意見は出たことがなかったらしく、僕はほとんど賞品を手にした記憶がありません。だからと言って、他人を羨んだり、自分を卑下することもなく、当然のことと思って大人になったような気がします。
数年前、上の子がまだ小学生だったとき、開会式の挨拶で、当時の教頭先生がこんなことを言いました。
「 皆さんは、今日は頑張ろうと思っていることでしょうが、普段の練習以上の力を出そうと思ってはいけません。怪我をしないように力を加減して、楽しい運動会を無事終わらせるよう気をつけましょう」
競技の内容も以前とは変わっていて、勝ち負けを問題にしないようなものが多く、到底怪我などするわけもないのは教頭先生の思惑通りでしたが、盛り上がりに欠け、楽しいとは言い難い雰囲気のまま終了しました。
この件に関する子供達や親の反発は強く、私も学校に手紙を書きました。
曰く、「運動会で子供に怪我をさせたら大変だという先生方の気持は理解できます。しかし、大多数の親は、子供達が一所懸命頑張って力を出し切る姿を見たいと思っているはずです。子供達自身は、さらに強い欲求により、競いながら助け合うことを学ぼうとしています。実際に子供が怪我をしたら学校や先生の責任を問われることも多々あるとは思いますが、それでも先生方には、”全力でやりなさい。何かあったら先生が全責任を持つから”というくらいの気概と情熱を持って子供に向かって欲しいと願っています」
この手紙の効果があったかどうかは不明ですが、翌年新しく赴任してきた校長は、運動会の開会式で「競争することは悪いことではありません。正しい競争をしましょう」と挨拶し、元の運動会に戻りました。
しかし、それから数年後、昨年の学芸会が終わった後、複数の父母から次のような意見が出されました。高学年の演劇に関してですが、「一部の子供だけが目立つような内容は、学校教育の場としてふさわしくないと思います。両親も祖父母も楽しみにしているのですから、機会を均等にして、どの子も同じように活躍できる内容にするべきです」と。中には、自分の子供の舞台に出ている時間を測って、その数字を先生につきつけて抗議した親もいたと聞きました。
やれやれ、困ったもんだな・・・という感じです。 幼稚園の学芸会で、赤頭巾ちゃんが7人、狼が5人、おばあさんも5人同時に舞台に上がったのを見ましたが、あれと同じ事をさせようというのでしょうか。幼稚園ならまだ許せますが、小学生も高学年になれば芸術表現について理解もできますし、教える必要もあると思います。
芸術には必ず主役と脇役があって、それぞれがその役を果たさなければ、表現として成立しません。美しいバラの絵を完成させるには、花瓶やテーブルはバラの花を引き立てる役割に徹する必要があります。そうすることでそれぞれがその存在価値を高め、絵全体の完成度を高めることになります。演劇も一枚の絵と同じことで、主役や脇役がそれぞれの役をしっかり果たすことにより全体としてひとつのまとまりを持たせ、鑑賞に堪える作品となるのだと思います。学芸会では、(おそらく先生の意図に従って)このことを子供たちは正しく理解し、協力して立派な作品を作り上げましたが、一部の大人たちにはその真剣さも達成感も伝わらなかったようです。
運動会にだって主役と脇役があって毎年ほぼ同じ役回りですが、誰も文句は言いません。「いつも同じ子が1位なのはけしからん。たまにはうちの子を1位にさせろ。それが平等というものだ」なんて言ったらヒンシュクを買うこと間違いなしですが、芸術の分野ではときたま通用する論理のようです。
わが三女の足が突然早くなるわけはなく、それにもかかわらず明日の運動会に自信たっぷりなのは何故なのでしょう?親としては、三女の目標が3位入賞で、それが達成できたなら立派なものだと思いたいところです。ビリも3位もいなければ1位はないのですから。
ー続くー