サザンオールスターズ活動休止のニュースが世間を賑わしています。新聞の号外が出たり、株価が変動したり、そんなに重大なことなのか?と疑問に思うほどの騒ぎようです。
と言いながら、僕にとってサザンは大きな影響を与えてくれたミュージシャンであり、活動休止のニュースを聞いて、確かに気がめいるようなショックを受けました。熱心なファンというわけでもなく、普段それほど彼らの音楽に親しんでいるわけでもないのに、彼らから人生を変えるような重大なメーッセージを受け取っている、そんな人間が僕以外にもたくさんいて、それでこの騒ぎなんじゃないかと想像しています。
僕がサザンから影響を受けた、というより学んだことはふたつあります。ひとつは、「人の才能を自分に理解できるかできないかで判断してはならない」ということでした。サザンのデビュー曲「勝手にシンドバッド」は、日本でシングルリリースされてから2年後くらいにパリではじめて聞きました。そのときの印象は、「なんだこれ?これは音楽じゃない。こんなのがヒットするなんて、最近の日本はどうかしちゃったんじゃないのか?」というような感じだったと思います。歌詞はめちゃくちゃだし、曲は破天荒、何より歌い方が気に入らず、僕には全く理解できませんでした。
その後帰国して間もなく、TVで「ふぞろいの林檎たち」の第一回放送を偶然に見て、ドラマの内容も良かったのですが、それ以上に主題歌の「いとしのエリー」やそれ以外の挿入歌の素晴らしさに感動しました。この曲を作った人間は天才だと思いました。しかし、それらがすべてあの「勝手にシンドバッド」と同一の作者だということをかなり後になって知り、愕然としました。
フランスには、長い間その価値を認められなかった画家がたくさんいます。ゴッホもセザンヌもモジリアニも、 生きているときに絵が売れたことはほとんどありませんでした。ピカソでさえ若い頃は、その作品を「汚い絵」と評されて展覧会場の外に放り出されたことがあります。当時の人間は、どうしてその才能を見抜けなかったのだろう、もし僕がそこにいたらきっとその才能に気が付いただろうに、とかなり不遜なことを考えたりもしていました。
しかし僕は「勝手にシンドバッド」の作者の才能に全く気が付きませんでした。それどころか、不快にさえ思っていて、こんな連中はすぐに消えると決め付けていました。あとになって改めてこの曲を聴いてみると、確かにきらめくような才能の片鱗をいたるところに発見できるのですが、とにかく最初は全く気が付かなかったのです。
この経験をして以来、僕は自分の感性を100%信じるということがなくなりました。これまで大勢の人間にステンドグラスを教えてきましたが、僕に理解できない生徒には、すばらしい可能性があると考えるようにしてきました。そのおかげでいくつかの才能をつぶさずにすんだと思っています。
二番目に学んだのは、具体的な作品つくりに関することでした。ステンドグラスは絵と同様、たった二つの要素からできています。それは”色と形”、あらゆるものがこの二つの組み合わせからできています。音楽で言うと、”曲と歌詞”に相当すると思いますが、サザン、と言うより桑田佳祐さんはこの関係に新境地を開いたと思います。通常は、曲と歌詞をいかに素晴らしく適合させるかに苦心し、それがうまくいったときに名曲が誕生したことになるのですが、桑田さんの創作方法は明らかに違っていて、曲が優先し、歌詞は曲を補助する程度で適当にしとけ、と考えているかのようです。ありきたりのせりふが多く、唐突に英語が混じったり、意味不明の言葉も登場したりで、かなり気楽に語感だけで言葉を並べたように感じられます。言葉に意味を持たせすぎると曲の邪魔になると考えているような気さえします。しかしこのアンバランスの心地よさ、漠然とした歌詞で自分勝手なイメージを膨らませながら、メロディーに身を委ねる感じは、唯一サザンオールスターズの音楽でしか体験できません。
僕はそれと同じことを ステンドグラスでも表現できるのではないかと考えました。
色だけを考えて、形はどうでもよい、そんなステンドグラスがあっても良いと思います。
とはいえ、でたらめな形にするとそこに何か別のものが生まれて、かえって色の主張を邪魔してしまうように思えます。
そこで一番気にならない形、正方形を主題にしてガラスを分割することにしました。
幾何学的に正確な正方形の場合もありますが、少々変形させることもあります。
とにかくガラスカットをこれ以上はできないくらいにシンプルにして配色のみで見せようという姿勢は、僕の創作活動の一分野として定着しています。