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懐かしき庭-その6-

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納期が迫った別の仕事にしばらく専念していた。そちらが一段落したので、またこの仕事を再開する。

ガラスが一枚割れてしまい作り直す必要があった。それまでは効率よく仕事を進めてきたつもりだったが、ここで躓く。
たった一枚のガラスのために数日間を費やした。

しかし泣き言を並べるのはやめよう。
この後は絵付けの仕事が待っている。
筆で描く線にはその時の感情のすべてが表れる。
朗らかで生き生きとした線を描きたい。

絵付け技法の発展

ステンドグラスの発祥地はヨーロッパ、中でもフランス辺りと思っている人は多いが、実は中近東だということが分かっている。紀元後数世紀頃のエジプトやサウジアラビアの回教寺院遺跡から窓に使ったガラス板らしきものの断片が発掘されている。

窓用ガラス板は、そこから数十年かけてイタリアに渡りキリスト教会建築に取り入れられる。その頃はまだ大きなガラス板を作る技術がなかったが、一方で建築技術が飛躍的に進んで建物が巨大化し、それに伴って窓も大きくなっていった。その大きな窓を塞ぐために、小さなガラス板を繋いで一枚の大きな板に作り上げる必要があった。それが実用的ステンドグラスの始まりだ。

ステンドグラスには窓を塞ぐという“実用的”な用途があったが、同時にキリスト教芸術と結びついてもう一つの”実用的“役割も果たすようになる。当時の一般大衆はほとんど文字が読めなかったため、聖書の物語を説明するためにステンドグラスを利用していたというのはよく知られている事実だ。

聖書の場面を説明するには、建物や動植物をそれらしく描かなければならず、多数登場する聖人たちの細かな感情までを表現する必要があった。ステンドグラスの絵付け技法はキリスト教芸術に必要とされ、キリスト教と共に数百年にわたり発展し続けた。

宗教を離れて

12世紀から16世紀初頭までは、キリスト教にとって、また同時にステンドグラスにとっても最盛期と言ってよい時代だった。しかしルターの宗教改革を契機にしてキリスト教の力は徐々に衰え、17世紀には大きくしかも無色透明のガラス板が作れるようになったこと、さらには産業革命以後職人の賃金が高くついたことも影響してステンドグラスの需要が急速に失われていく。
17世紀初め~18世紀の中頃までの150年間ほどの期間は”ステンドグラスの暗黒時代”と称されている。

再びステンドグラスが活躍の場を与えられたのは18世紀後半、ゴシック建築が復興した時だった。ゴシック建築やそれに伴う芸術こそが最高のものだとする「ゴシックリヴァイヴァル」運動が英国から始まって盛んになり、世界へと広まっていった。当時はすでに色ガラスの製造方法さえ分からなくなるほどステンドグラスは衰退していたが、芸術運動の大きな波に乗って再びその制作技術を復活させた。

「ゴシックリヴァイヴァル」運動は、その後1880年代にウィリアム・モリスが主導する「アーツ・アンド・クラフツ」というデザイン運動へと引き継がれるが、ここでステンドグラスの果たした役割は大きかった。
それまでのステンドグラスは宗教的題材に限られていたが、「生活を豊かにする」道具のひとつとして、純粋に装飾的デザインのステンドグラスが窓を飾るようになっていった。
この運動はフランスに渡ってアールヌーヴォー様式へと引き継がれ、そこでもまたステンドグラスが大きな役割を果たすことになる。

(モリス邸のステンドグラス)

と、ここまで書いて思ったのだけれど、話が大分ズレてきてステンドグラスの歴史になってる。
興味のない人にとっては退屈なだけかも?

次回は絵付け技法の実作業に話を戻すことにする。

ー続く

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