雑記帳

風立ちぬ

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先日、宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」を見てきました。
これまでのジブリ作品とは違って子供には難解であり、ストーリー全体に抑揚がなく淡々と話が進行し、宮崎監督の告白を密室で 聞かされているような気がしてきます。その直後に監督の引退発表のニュースをTVで見まして、そういうことだったんだと半分納得できました。

映画の主人公は、堀越二郎という実在の人物をモデルにしており、実名で登場します。彼の人生に堀辰雄の小説「風立ちぬ」の内容が色濃く織り込まれて、さらに宮崎監督自身の人生も随所に織り込んで複雑さを増し、一見地味な内容ですが、はじけるように鮮やかな色彩に彩られた重厚な作品だと思います。

堀辰雄の小説「風立ちぬ」の冒頭で、主人公の”私”が、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と呟く場面があります。これは、ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節を、堀辰雄が訳して引用したものです。原作の仏語では、“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”ですが、たったこれだけの語句に時間的空間的に果てしなく広がる豊かなイメージが込められており、発音までも美しく見事にまとめられています。日本語に直訳すれば”風が起きている、生きてみなければならない”となりますが、これでは全くヴァレリーの感性が反映されません。「風立ちぬ、いざ生きめやも」という語句には、ヴァレリーの原語が持つ色彩や音感が感じられます。訳した堀辰雄の、言葉に対するセンスの素晴らしさでしょう。

同様に宮崎監督は、堀越二郎の人生や堀辰雄の小説をアニメの手法で翻訳する作業を、職人的手腕で的確にこなしました。映画を見終わった後に印象として残るのは、堀越二郎~堀辰雄~宮崎駿という大河の底に一貫して流れる基調とでも言うべきもので、僕はそれを”美への執拗な探求心”だと思いました。

映画の中で二郎が鯖の骨を取り出して「美しい!」と感嘆する場面があります。これが宮崎駿監督の心の底であり、これを吐露したところで「もうこれ以上自分のポケットには何も入ってませんよ」という引退宣言になったのではないかと想像します。
戦争も災害も自身の恋愛さえも、美の探究の前では、まるで他人ごとのように傍らを過ぎ去っていく・・・という覚悟や諦めにも似た認識、「何だか切ないなあ~」と映画館の座席を立ちながら思いました。

実を言うと、かなり前から計画していた今年の秋の展覧会のタイトルは、「風立ちぬ展」にする予定でした。僕にとって”風立ちぬ”という言葉のイメージは、ヴァレリーや堀辰雄の作品の影響もありますが、もうひとつ松田聖子が歌う同名の曲の印象が強く影響し、”一輪の花が丘の上で風に吹かれながらも凛々しく咲いている”という絵です。この曲の歌詞の中では、”風立ちぬ~今は秋”というフレーズがリフレインになっていて、秋の展覧会にはぴったりだったのです。

しかしながら、夏から続く宮崎作品の大ヒット、今そのタイトルを自分の展覧会に使ったら、映画の人気に便乗したと思われるのは必至です。やめにしました。
作品展タイトルは他に思いつかず、今回はノンタイトルです。


でもいつも一緒にやっている陶芸家の上島英揮氏が一緒、「ステンドグラスと陶 二人展」です。

9月23日~29日まで。

横浜の「ギャラリーアスレ」で開催します。

詳細はこちら

ぜひお立ち寄りください。

 

 

 

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